田月仙と「高麗山河わが愛」「山河を越えて」
の物語
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チョン・ウォルソン(田月仙)は東京生まれの在日コリアン2世。両親は韓国出身。日本の音楽大学に進み声楽を学ぶ。若くしてソリストとして楽壇にデビュー。二期会の会員として次々とオペラの主役を演じ“水仙の花が咲いたようなスター性”表と評され、その評判は海を越えた。 |
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1985年4月。チョン・ウォルソンは北朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国・ピョンヤンに招かれ初めて朝鮮半島の地にその歌声を響かせた。朝鮮半島全体を一つの国と見る彼女にとって北も南も同じように祖国に変わりなかった。 |
1994年10月。ソウル定都600年を記念して韓国オペラ団と東亜日報が主催する「カルメン」の主役として今度は南の韓国に招かれた。アジア最大規模の「芸術の殿堂ソウルオペラハウス」でのカルメン公演。マスコミの共同記者会見では「38度線を越えた歌姫」と話題を集めた。詩人の金時鐘は「在日で生きることはマイナスに思われがちだが、彼女は在日を生きることで、国際舞台に立てることを示した可能性の象徴」と評した。 |
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南北両方の公演を実現したウォルソンは南北の分断の痛みを
実感した。そしてソウルで偶然出合った1曲の歌に強くひかれリサイタルで歌うことにした。「高麗山河わが愛」だ。
ウォルソンは様々なコンサートで必ず「高麗山河わが愛」を歌うようになった。
渾身の歌を聞いた在日コリアンの多くが涙を流した。
しかし誰もこの歌の作者を知らなかった。そして作者がわからないまま田月仙はこの歌を歌い続け1年が過ぎた…。 |
ところが1996年1月。アメリカワシントンから1通の郵便が届いた。中には楽譜と手紙。差出人は「高麗山河わが愛」の作者だった。彼は自分の
無名の歌を歌っているチョン・ウォルソンの存在を耳にし、感激して手紙を書いたのだ。 |
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1996年5月。チョン・ウォルソンはロサンゼルスのオーケストラのコンサートに出演するためアメリカに行った。オーケストラの在米コリアンの指揮者は「高麗山河わが愛」の作者を知っていた。彼は田月仙の存在を作者に知らせ、作者が田月仙に手紙を送ったのだった。
十数年前、指揮者
は「高麗山河わが愛」の楽譜を渡されて。しかし多くの人が「高麗」という言葉に北の色を感じたため歌われる事はなかった。 |
コンサートが終わりチョン・ウォルソンはワシントンに住んでいる
「高麗山河わが愛」の作者を訪ねた。
彼は「本当に月から仙女が降りてきたようだ」と言った…。
作者は在米コリアンの歯科医 盧光郁(ノグァンウ)。1918年に南浦で生まれ、ソウルで育った。南北のいさかいに失望し朝鮮戦争休戦の年にアメリカに渡った。その後アメリカ国籍をとったが頭の中には朝鮮半島しかなくある日「高麗山河わが愛」を一息で書き上げた。
作者・盧光郁は「高麗山河わが愛」を田月仙が広めるように託した。 |
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1996年12月。チョン・ウォルソンは再び韓国に渡った。KBS韓国放送公社の年末
特別歌番組に出場することになったのだ。
長い間、誰も歌うことのなかったこの歌が客席の2万人と電波に乗って全国の数千万人の心に響いたのた。
在日コリアン、在米コリアン、そして500万人とも言われる在外コリアンすべての祖国にたいする愛を本国の人に訴えることとができたのだ。
韓国のリサイタルでは観客席も一緒になった「高麗山河わが愛」の合唱が続いた。
コンサートに訪れた韓国の伝説のシンガーソングライター金敏基(キム・ミンギ)はこの歌を聴き涙を流した。 |
2004年、田月仙の20周年リサイタルには作者・盧光郁(ノグァンウ)が来日した。
そして再び彼女は今も韓国、日本、そして世界中で和解と平和を訴える「高麗山河わが愛」を歌い続けている。 |
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2006年、田月仙はヨーロッパ公演の合間、ヤナーチェクフィルとの録音スタジオで「高麗山河わが愛」の日本語バージョン「山河を越えて」を作詞し、新しい歌が誕生した。 |
※作者の意向により、「高麗山河わが愛」「山河を越えて」はJASRAC登録はされておらず、すべての著作権管理を田月仙事務所が行っています。
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