「海峡のアリア 」 メディア(新聞・雑誌)掲載集

 

2006年12月17日 朝日新聞 「ひと」欄

自叙伝でノンフィクション賞を受賞した声楽家

「文句なしに面白い素材だが、文章に『香り』がない」という理由で小学館ノンフィクション大賞を逃し、優秀賞に選ばれた。授賞式では前選考委員から「大賞でないのはおかしい」と異論も出た。16日発売の自叙伝「海峡のアリア」(小学館)。賛否両論を聞いて「読むと一言いいたくなる引力。作品にそれがあることが確認できました」。

 東京生まれの在日2世。音楽を志したが、朝鮮学校卒を受験資格と認めない音大に軒並み門前払いされた。唯一門戸を開いた桐朋学園短大に入学し、1983年デビュー。幼少時から民族歌舞劇で培った歌声と舞踊が認められ、各国でオペラに主演。2002には日韓首脳の前で歌った。

 帰還事業で北朝鮮に渡った4人の兄について今回初めて詳しく明かした。兄との面会は1985年、金日成主席の前で独唱した数日後に実現する。会えた3人は政治犯収容所に9年間入れられた後で、1人はすでに亡くなっていた。

 北朝鮮の人権状況を訴え始めた母は病に倒れた。気力を取り戻してほしいと願い、母の心を占め続けた言葉を耳元でささやいた。「北朝鮮」。母は「悔しい」と答え、それが最後の言葉となった。

 「月下に咲く水仙」の夢を見て、月仙と名づけてくれた母。無念の思いを「十五夜の月」という詩に残した亡き兄。寝る前には窓を開け、夜空に月を探す。

 

2007/1/29 読売新聞

声楽家の田月仙(チョンウォルソン)さん

 自宅のピアノの上に、一冊の本が置いてある。「海峡のアリア」。声楽家の田月仙(チョンウォルソン)さん(49)(東京都新宿区)が、家族の人生をつづった作品だ。
 「母の訴えを埋もれさせたくなかった」。彼女は静かに語る。
 1957年、東京・立川で生まれた。両親は朝鮮半島出身の在日1世。高校まで朝鮮学校で過ごし、音大を卒業後の83年に歌手デビューを果たした。
 2年後、当時の金日成主席の誕生日を祝う公演に、出演者の一人として招待された。悩んだ末に初めて訪れた北朝鮮。かつて崇拝の対象と教えられた主席は、既に「独裁者」のイメージしかなかったが、それでも招待に応じた大きな理由は兄たちに会うことだった。
 子供のころ、母が部屋の隅で古びた写真を見つめているのを何度か目にした。4人の若い男性が写っていた。それが兄だと明かされたのは高校生の時だ。
 59年に始まった帰還事業。「地上の楽園」と宣伝された北朝鮮に多くの在日朝鮮人や日本人妻が渡った。兄たちも希望を抱いて船に乗った。田さんはまだ2歳だった。


 長らく音信が途絶えていた息子たちに会おうと、母が北朝鮮に渡ったのは80年。だが、そこで目にしたのは変わり果てた我が子の姿だった。4人は69年、いわれのないスパイ容疑で強制収容所に送られ、二男は翌年に亡くなった。3人は9年後に収容所から出たが、過酷な生活で体がむしばまれていた。
 帰還事業で北に渡った人の窮状について、日本に残った家族が語ることは少ない。しかし、母は帰国後、経営していた韓国料理店の客や知人に息子たちのことを語り始めた。
 そんな母の話を聞いていた田さんは、主席の前でうたった数日後に、兄たちと会った。ぽつりぽつりと暮らしぶりを話す姿に胸が締め付けられた。
 「すべての悲劇のもとは朝鮮半島の分断にある」。母はいつもそう語っていた。田さんも、いつしか朝鮮半島の統一を願う歌をうたうようになった。
 長男と三男はその後、亡くなったという知らせが届いた。四男は音信がない。母は一昨年2月、長い入院生活の末に病死した。この年の暮れに田さんはパソコンに向かい、兄や母の無念を詳細につづった。「事実を伝えたい」という一心で書き上げた本は、昨年の小学館ノンフィクション大賞優秀賞に選ばれた。
 〈兄たちが命に代えて私に残した真実を、決して忘れない〉。同書の文末にはこう記されている。

 

2007年1月21日日本経済新聞

「海峡のアリア」 田月仙氏 
朝鮮の音楽家の苦悩記す

 「私や家族の物語を、いつか書き残さなければとずっと思っていた」という。
朝鮮半島から日本に渡り苦労を重ねた父母。北朝鮮に帰国し、強制収容所に入れられた末に亡くなった兄たち。そして声楽家としてきた朝鮮と韓国の両方で舞台に立つというめれな運命を背負った自分。さらに南北分断のあおりで否定され、埋没した朝鮮半島の音楽家たち……半島と日本で巻き起こった争いに翻弄されたコリアンたちの人生をまとめた。
 オペラなどで活躍する歌の専門家であり、本を書いたのは初めてだ。2005年2月に亡くなった母が、枕元に自分の人生を語ったテープを残していた。さらに一ヶ月後、父が「これから本を一冊書く」と言い残して病に倒れた。二人の思いに背を押されて執筆に本腰を入れ、小学館ノンフィクション大賞の存在を知って応募した。

 優秀賞という結果を聞いたのは昨夏、シチリア島のホテルだった。聖母と二人の幼子が描かれた天井画に、母と兄を重ね合わせていた時で「涙が止まらなくなった」。
 在日コリアンたちの苦難や、北朝鮮の問題があぶり出される。しかしそれだけではない。「歌は単なる楽しみではなく、人々のいろいろな思いや人生の悲哀が込められた芸術だと伝えたかった」と語る。
 実際に、抑圧された人々の心が歌でつながっていく軌跡が描かれる。南北分断への思いを素朴な言葉で歌った「高麗山河わが愛」という曲のエピソードは典型的だ。米国在住のコリアンが作った歌のテープが偶然、韓国で著者の手に渡り、各地で歌って大反響を得る。すると全く知られていなかったその作者も見つかる。まさに「歌の持つ力を感じる瞬間を数多く持てた」人生だった。
 調査を続けている朝鮮半島の不運な音楽家のことなど、今後も「まだまだ書きたいことがある」という。

田月仙 1957年東京生まれ。桐朋学園大短期大学部芸術家および研究科卒。声楽家。二期会会員。

 

2006年12月27日 東京新聞

在日コリアンの声楽家で自伝を出版した田月仙さん

北朝鮮バッシングには使われたくない

 昨年二月の母親の死が「母の思いや私の周りに起こった事実を記録しておきたい」と決意させた。四ヶ月で下記亜げった在日コリアン一家の物語は、今年の小学館ノンフィクション大賞優秀賞に。「海峡のアリア」と題し同社から今月、出版した。

 東京都立川市生まれ。ロマンチックな本名は、母親が身ごもった時に見た夢ー満月の光が照らした湖面に咲くスイセンの花一輪にーに由来する。

 朝鮮学校の少女時代、舞台で拍手を浴び、芸術家を志す。だが事業に失敗した両親は夜逃げ同然で地方へ。一人残ってレストランのピアノ弾き語りで練習し桐朋学園短大に入る。1983年にオペラデビュー。北朝鮮と韓国、日本の各首脳の前で歌い「海峡を越えた歌姫」と称された。

 

本のクライマックスは封印してきた異父兄のことだ。母親と前夫の間に生まれた息子4人は、帰還事業で北朝鮮に渡った、4人ともスパイ容疑で収容所に。母親は北朝鮮訪問で奇跡的に再会するが、二男は既に亡くなっていた。「以後の母の人生は、北朝鮮政権を許せないという怒りと、絶望の交差する激しい思いに埋め尽くされた」という。

しかし、本を北朝鮮バッシングの材料にしてほしくないと言う。「南北分断が在日コリアンを翻弄してきた。私は祖国統一を願って歌っているから」。東京都在住49歳。

 

政治に翻弄される在日の姿を知って ソプラノ歌手・田月仙さんが自叙伝 【写真】  2007/01/11 北海道新聞

 国際的に活躍する在日コリアン二世のソプラノ歌手、田月仙(チョンウォルソン)さん(49)=東京都在住=が昨年十二月、波乱に満ちた自身の半生や、北朝鮮に渡った兄たちの過酷な運命をつづった自叙伝「海峡のアリア」(小学館)を出版した。昨年の小学館ノンフィクション大賞優秀賞受賞作で、田さんは「朝鮮半島分断による悲劇、国家や政治に翻弄(ほんろう)される在日コリアンの姿を知ってほしい」と話している。

 田さんは東京生まれで、桐朋学園短大で声楽を学び、一九八三年デビュー。八五年、北朝鮮に招かれ、当時の金日成(キムイルソン)国家主席の誕生日の祝賀公演で独唱、九四年には韓国でオペラ「カルメン」の主役を務めた。ここ数年は欧州でも公演を行っている。

 本書では、朝鮮学校出身という理由で同短大以外から受験を認められなかった田さんが「ボクサーが拳一つでリングに立つような心境」で歌手を目指し努力を続けた半生を中心に振り返った。

 六○年、「地上の楽園」と喧伝(けんでん)されていた北朝鮮に渡航後、スパイ容疑で強制収容所に入れられた四人の異父兄についても詳述。

 北朝鮮公演の際、既に収容所から出ていた長兄ら三人と面会した田さんが長兄から託された母への手紙には「どんな逆境の中でも、善と悪を見抜く(中略)そういう意志を育ててくれた、愛する私のお母さんに、心から感謝しています」とあったという。

 それから二十年余り。四人のうち、三人は既に死亡し、一番下の兄は現在音信不通。息子を北朝鮮に送り出したことを悔やみ続けた母は二○○五年、七十八歳で亡くなった。

 田さんは「母や兄の思いを歴史に埋もれさせず、私の言葉で書き残したかった」と話している。

 四六判、二百八十二ページ、千五百七十五円。

<写真:「音楽を通し、故郷日本と祖国である朝鮮半島をつなぐ役割を担いたい」と語る田さん>

 

在日コリアンへの理解深めて 2世の声楽家・田月仙さんが自叙伝 「海峡のアリア」

 ◇政治に翻弄された一家

 韓国と北朝鮮両国で歌った在日コリアン2世の声楽家で二期会会員の田月仙(チョン・ウォルソン)さん(49)=新宿区=が16日、自叙伝「海峡のアリア」(小学館)を出版した。著書は今年の小学館ノンフィクション大賞の優秀賞受賞作。母や北朝鮮に渡った4人の兄に触れ、「日本社会に生き、政治に翻弄(ほんろう)され続けた一家の姿から、在日コリアンへの理解を深めてもらえれば」と話す。【工藤哲】

 ◇「3人の兄・母亡き後、自分が事実伝えたい」

 田さんは東京・立川市生まれ。朝鮮学校で学び、桐朋学園短大を卒業後、83年に声楽家としてデビューした。平壌とソウルで南北公演を実現し、代表曲に「高麗山河わが愛」がある。

 著書では、貧しかった1世の両親が昭島市のアパートに住み、借りたリヤカー1台で廃品回収から身を立て、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の多摩地区の役員を務めたことや、母が一度離婚をし、4人の息子が帰還事業で北朝鮮に渡っていたことを10代後半に知ったことを振り返る。

 北朝鮮に渡った後、4人の兄の暮らしは苦しかった。高校や大学に進んだが「反政府組織に加担した」というスパイの疑いが持たれ、1969年から9年間を強制収容所で過ごした。過酷な生活は兄3人の命を奪い、四男の兄は音信不通のままだ。

 金正日(キムジョンイル)総書記が拉致を認めて謝罪した後、母は倒れ、昨年2月に78歳で亡くなった。「すべての悲劇のもとは朝鮮半島が南北に分断されたこと」が母の言葉。面影を振り返り「今度は自分が事実を伝える番」だと思った。

 田さんは「思いは埋もれさせないからね」と母や兄たちに話しかけながら年末年始に一気に書き上げた。数えると500枚。机に向かうと言葉が次々にあふれてきた。

 日本海を隔てて引き裂かれた家族。横田滋、早紀江さん夫妻と母の悲しみが重なる。田さんは「母や兄たちの人生を無駄にしたくなかった。事実をありのままに伝え、その思いが歌と同じように多くの人に伝わってほしい」と話している。

毎日新聞 2006年12月22日

 

共同通信

半世紀を刊行した在日の声楽家・田月仙さん
引き裂かれた家族 音楽通して考える

「音楽活動をしながらも、私の人生の経験を一度書きたいと思っていた。二年前に亡くなった母の痛みを埋もれさせたくないと、書き始めた。」
声楽家田月仙さんが、朝鮮半島と日本に引き裂かれた家族の物語「海峡のアリア」を小学館から刊行した。昨年の小学館ノンフィクション大賞に応募し、優秀賞を受賞。日本で、韓国で歌曲を歌い続ける半生に、母への思いを重ね合わせる。
田さんは在日二世として小学校から朝鮮学校に通い、章楽大から二期会オペラスタジオを経て、声楽家に。「学校では民族教育。でも外では日本の現実があって、その両方を生きていた。民族や国籍でなく、私自身が何者かを、音楽を通して考えたかった」
そのうち、母の秘めた悲しみに気づく。母は田さんの父と知り合う前に一度結婚し、四人の兄がいた。だが息子たちは一九五九年からの帰還事業で北朝鮮へ渡る。「父が違う兄たちに幼いころ会っただけで、ずっと忘れていた。母は時々、兄たちの写真をじっと見つめていた」と田さん。
母は八〇年、初めて北朝鮮を訪問し息子たちと三人と再会する。分かったのは、息子たち四人はスパイの嫌疑で長く強制収容所に入れられ、二男がそこで死亡したという衝撃の事実だった。
八五年、田さんに平壌での音楽祭に出演する依頼があり、故金日成主席の前でアリアを歌い、兄たちにも再会する。「ずっと祖国と聞かされてきた。でも、戦争がまだ続いているような緊張感が漂っていた。複雑な思いを封印して歌った」
田さんは九四年には韓国で「カルメン」の主役を演じ、その後、南北統一を願う韓国語の歌曲「高麗山河わが愛」を代表曲に、〝海峡を越えた歌姫″として韓国公演を重ねることになる。
そして一昨年、母が死去する。「私が最後に聞いた母の言葉は「悔しい」の一言だった。韓国と北朝鮮、そして日本の間に横たわる溝は、多くの人の心をも引き裂いてきた。そうした人たちの魂のために、私は歌い続けたい」

「音楽を通じて私も解き放たれたい。音楽には海峡を越える何かがあると思うんです」
と語る田月仙さん」

 

月刊現代
本のエッセンス(GENDAI April 2007)
『海峡のアリア』  田月仙((チョン ウォルソン)著
金日成の前でアリアを絶唱した歌姫の衝撃の半生  野村 進[ノンフィクションライター]

率直に申せば、敬遠したい本であった。在日のオペラ歌手として知られる著者のマスコミへの露出の仕方が、よくいる「在日を売り物にしている文化人」の一人のように、私の目には映っていたからである。したがって本書を手にしたのは、不遜ながら、在日コリアンを取材してきたジャーナリストとしての関心からにすぎない。案の定、自己顕示が端々にのぞく。
「舞台を所狭しと縦横無尽に飛び回った」などという、本人が書いては鼻白む表現も散見される。
しかし、そんな瑕瑾(かきん)を吹き飛ばしてしまう凄まじい訴求力がある。本書は第十三回小学館ノンフィクション大賞の優秀賞に選ばれたのだが、大賞を逸した理由がわからない。
歴代の受賞作と比べても、読者の心を揺さぶる力は無類ではあるまいか。
著者の母には、実の娘にも言えない秘密があるようだった。父がいないときに限って、ひとり古ぼけた写真を食い入るように見つめている。やがて著者は知る。その写真に写っているのは、母が父との再婚前に結婚していた男性とのあいだに生まれた四人の男の子で、彼ら異父兄が一九五〇年代末からの「帰還事業」により、全員北朝鮮に渡り音信不通になっているということを。
ここから物語は大きく動き出す。
母は北朝鮮を訪問し、四人の息子たちが無実のスパイ容疑でそろって強制収容所に送られ、次男は「殺された」ことを、痩せこけた三人の息子から聞く。悲嘆にくれた母が、自ら髪の毛を切って息子たちに手渡し、次男の墓に埋めて「せめて母親の匂いだけでもかぐように」と言う場面には、胸つぶれる思いを禁じえない。
著者もまた他日、北朝鮮で兄たちとの四半世紀ぶりの再会を果たす。ところが、それは当時の金日成主席の誕生日を祝賀するコンサートに招かれたおりなのだ。ご満悦な表情の金日成の前でアリアを絶唱した直後、舞台の袖に引き下がった著者は、暗闇の中で、オペラ「トスカ」の、「この男の前にローマ中が震えていたのだわ!」という台詞(せりふ)を呟(つぶや)く。「トスカ」は、著者と再会したとき「まるで暗闇の中にいる動物のように」目を異様に光らせていた長兄が好きだと言っていたオペラなのである。このシーンなど、たとえるのも憚(はばか)られるのだが、シェークスピア悲劇の一幕を見ているかのようだ。
ついに北朝鮮から戻れずに亡くなったこの長兄が、著者に託した母宛ての手紙が、引用されている。
「私はどんな逆境の中でも、善と悪とを見抜くことができる、また正義のためなら命を捧げることもできる、そういう意志を育ててくれた、愛する私のお母さんに、心から感謝しています」
この一節に、私は不覚にも落涙した。本書には、母親が生前テープに吹き込んだ自伝も収録されている。つまり、戦後在日史の「最大の悲劇」と呼ばれる帰還事業について、著者と母と兄が、一冊の中でそれぞれの立場から本音を語っているのである。これは実のところ、きわめて稀な例だ。
本書はオペラ歌手の独り語りと思いきや、そうではない。著者は、埋もれた韓国の歌を掘り起こし、わざわざワシソトンまで在米コリアンの作曲者を訪ねたり、『鉄道唱歌』のような日本のメロディが、歌詞を変えて南でも北でも歌われていた事実を調べ歩いたりし、それが結果的にノンフィクション取材と同じ成果をもたらしている。
韓国での日本文化開放決定、金大中と金正日との南北首脳会談、日韓共催のワールドカヅプ、そして北朝鮮による日本人拉致の発覚……。ここ数年だけでも、日本と朝鮮半島とのあいだには大事件が相次いだ。そのたびに著者は激しく揺り動かされ、在日の表現者として前面に立とうとする。それをときに売名のように見ていた自身の不明を、私は恥じなければならない。
日本人拉致の発覚後、著者は衝撃のあまり歌えなくなった。それが横田めぐみさんの両親が来ているコンサートでも歌えるまでに回復した頃、最愛の母が亡くなる。母の最期の言草は、ただひとこと「悔しい……」であった。
何という遺言であろうか。

 

朝日新聞アエラ(AERA)

海峡越えた歌姫が明かす「北への怒り」
在日2世の声楽家・田月仙さんが自伝で

2004年正月、母はもはや話ができる状態ではなかった。
母の最後の言葉を聞きたい。記憶を取り戻す言葉は一つつだけ。
「北朝鮮……」と耳元で伝えた。
「悔しい……」
母は確かにそう言った。そして二度と口聞くことなく翌年2月、帰らぬ人に。78歳……。         
母の話になると田月仙(チョンウォルソン)さん(49)の声が震えた。目が潤んだ。
田さんは在日2世のオペラ歌手。1985年に訪朝して金日成(キムイルソン)主席の前で歌い、94年には韓国でオペラ公演の主役を演じた。
02年のサッカーw杯閉幕時に行われた小泉首相(当時)主催の韓国大統領歓迎公演で独唱。「海峡を越えた歌姫」とテレビの長編ドキュメンタリーにも取り上げられた。
「別荘」、実は収容所
その彼女が自伝「海峡のアリア」を書いた(12月13日発売)。北朝鮮支持の在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)系の学校で育ち、日本の音大を経て音楽家となった彼女が「北」と「南」で歌うことになった経緯と、歴史に埋もれた朝鮮半島の音楽家たちを訪ね歩いた旅などが描かれている。
が、華やかな活動の裏にはきれい事ではない事実が秘められていた。

田さんには帰国事業で59~60年に日本から北朝鮮に渡った4人の兄がいた。4人は母と前夫の間の子で、帰国時は2歳ほどの田さんには見覚えがなかった。
「小学校の頃、兄たちの写真を見つけた私が尋ねても、母は『遠くにいる親戚だ』と言うだけ。兄だと知ったのは高校生の時。驚くというより、私や姉、弟たちを思いやり、話さなかった母には、いろんな苦労があったんだなと」
母のもとに71年、帰国した友人から手紙が届いた。「あなたの子供たちは府中の別荘にいる」。
友人は北朝鮮当局の検閲に悟られないよう強制収容所のことを「別荘Jと書いたのだった。
80年、北朝鮮を初めて訪ねた母はやせ細った息子たちと再会した。
4人はスパイ容疑で69年から78年まで咸鏡南道の耀徳収容所に入れられた。次男は収容所で死亡。まだ24歳だった。
この時期。数多くの帰国者が一晩のうちに逮捕、収容所に送られている。帰国者の子供で耀徳収容所を体験、韓国亡命後に新聞記者となった人種活動家の姜哲煥(カンチョルファン)氏は収容所で4人をよく知っていた。
「怒りと絶望の人生」
「罪があるなら、美術仲間同士の席でミケランジェロを尊敬すると言ったことしか思い当たらない」と、2度目に訪れた母に彫刻家志望で帰国した長男はつぶやいた。
「その後の母の人生は、わが子の人生を無残に奪った北朝鮮政権に対し、決して許せないと言う怒りと、絶望の交錯する激しい思いに埋め尽くされた」(著書から)
母は知り合いや朝鮮総連関係者に帰国者の惨状を訴え始め、北朝鮮の惨状を告発する市民団体にも参加するようになった。
田さん自身が兄たちと会ったのは85年4月朝鮮総連の誘いで金日成主席の誕生日祝賀行事で歌うため初訪朝したときだった。僻地に追いやられた兄たちと、ひのき舞缶で歌った妹。ただ一度の出会いだった。
「その後も訪朝のオファーは来ましたが断りました。兄たちの受けた現実を知りながら、あの国の体制を賛美する歌は軟えない」90年と01年に2人の兄が病死。残った兄も音信が途絶えた。
「母の死で、どうしても自分の言葉で書かなければならないと思った。在日には『北朝鮮の実情を語っても日本人の物笑いの種になるだけだ』との思いがある。私の中にもあります。でも、もっと強いものがあった。母と兄の思いを形として残したい気持ちが」
編集部  小北清人

 

2006年12月12日 産経新聞

『海峡のアリア』田月仙(チョン・ウォルソン)著

 ■在日歌手がつづる“レクイエム”

 歌を歌えなくなった経験、ありますか? 歌詞やメロディーを忘れたというのでは無論ありません。悲しくて、腹立たしくて、心の中の思いを外に出せないがゆえに、歌う気持ちになれなくなるという感覚−−。

 在日2世の女性オペラ歌手である著者の田月仙さんは、そんな経験をもっています。デビューまもないころ、北朝鮮に招聘(しょうへい)されて金日成主席の前に立った彼女は、政治的背景も、個人的な思いも封印して、ただ全身全霊をかけてアリアを歌いました。また、「反日」が色濃く残る韓国で日本の歌を拒否されてもなお、彼女は「在日」である自分にしか歌えない歌を求めてこんな歌を見いだしました。

「南であれ 北であれ いずこに住もうと みな同じ 兄弟ではないか……」

 そんな歌とともに生きてきた声楽家が、しかし、ある時、歌うことができなくなってしまうのです。それは「祖国」北朝鮮が「故郷」日本の無実の人々を拉致していたことを認めた日朝首脳会談がきっかけでした。

実は彼女の兄もまた、北朝鮮に酷(ひど)い仕打ちを受けていました。かつて「地上の楽園」と喧伝(けんでん)されていた北朝鮮に望んで「帰国」していった4人の兄。しかし彼らは、かの悪名高き強制収容所に入れられてしまったのです。その事実に、誰よりも怒り、悲しんだのは田さんの母親でした。心底信じていた「祖国」に裏切られたことを悟った母は以来、孤独な、しかし断固たる闘いを始めるのです……。

 そんな母の思いに支えられ、田さんは再び歌うことを決意します。本書は、涙なくしては読めない、母や家族への“レクイエム”とも言うべき作品です。

 

Post Book Review (週刊ポスト07年3月)
著者に聞け!
孤立無援で語り続けた母の思いを継ぐべく名もなき人々のために歌い続ける
田 月 仙

06年公開された映画『めぐみ』の副題は“引き裂かれた家族の30年”  。愛娘を奪われた家族の、とりわけ拉致問題が今日のように注目される以前の孤立無縁な闘いに、観る者は自分を含めた世間の無関心を反省させられることになった。
「もちろん拉致問題と同列に語ることはできませんが、私の母も同じような思いを抱えて生きてきたと思う」
そう語るのは、国際的に活躍する声楽家・田月仙(チョンウォルソン)氏。在日二世として東京・立川に生まれた彼女には実は4人の異父兄がいた。
前夫と離婚後、いわゆる帰還事業(1959年~)で北朝鮮に渡った息子たちが、地上の楽園と喧伝される祖国できっと幸せに暮らしていると信じて疑わなかった母。だが、その思いは結局、“祖国”によって裏切られてしまう  。
第13回小学館ノンフィクション大賞・優秀賞受賞作『海峡のアリア』は、田氏が母や兄たち、そして自身の波瀾の生涯を綴(つづ)った渾身のノンフィクション。海峡のこちらとあちらに引き裂かれた、もう一つの家族の物語を、彼女は声楽家ならではの目で見つめる。

田氏は85年春、平壌・万寿台(マンスデ)劇場で金日成(キムイルソン)主席(当時)を前にアリアを高らかに歌い、02年日韓W杯の際には小泉首相主催・金大中大統領歓迎公演の舞台に立った歌姫でもある。
<「祖国」朝鮮半島と、海峡を挟んだ「故郷」日本との間で、在日コリアン二世の私の思いは宙をさまよい、幾重にも重なりあう複雑な輪舞(ロンド)を描く> <それでも私は、暗闇から光の中へと絶え間なく歩みを進め、歌い続けた>   本書はそんな彼女が世界的なオペラ歌手となるまでの軌跡をたどる一方、05年に亡くなった母が抱え続けた<恨(ハン)>を書き綴る。それは在日コリアンの一家族の歴史であると同時に、我々の目に見える・見えないにかかわらず存在する現在進行形の歴史なのだ。
「母が胸の奥に慟哭(ドウコク)を抱えているだろうことは子供心にも何となく気づいていました。兄たちのことを語ろうとしない母を、私たちも何も開かずに見守っていた。
そして80年にやっと訪朝の機会を得た母は、それこそ船が着く寸前まで祖国北朝鮮を信じていた。ところが母を出迎えたのは明らかに痩せ衰えた3人の息子で、4人の兄のうち次兄は既に亡くなっていた。北朝鮮で謂(イワ)れなきスパイ容疑をかけられた児たちは69年から9年間、強制収容所に入れられていたんです……」   
この3人の兄には、田氏も85年に平壌へ招待された際に面会している。そして〝特別待遇″にあった彼女は、検閲を受けることなく長兄の手紙を母に持ち帰るのだが、そこには彼らが〝楽園″で受けた仕打ちと、収容所で力尽きた次兄の死に至る経緯が事細かに書かれていたのである。
長兄は北朝鮮各地にある収容所で今も苦難を強いられている同胞のために戦うのが自分の務めだと書き、<オモ二(お母さん)、この息子に対してあまり心配をLないで下きい><どんな逆境の中でも、善と悪を見抜くことができる、また正義のためなら命を捧げることもできる、そういう意志を育ててくれた、愛する私のお母さんに、心から感謝しています>と結んでいた。
が、その彼も90年に息絶える。そして、失意の底に沈んだ母はどうしたか……。語り始めたのである。母は自ら営む韓国料理店で客を前に“楽園”のウソと現実を説いた。当時まだ北朝鮮問題への世間の関心は薄かったが、母の話に耳を傾ける人は徐々に増え、彼女の孤独にして勇気ある闘いはやがて「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」等の活動に結実してゆく。
「家族と引き裂かれて苦しんでいるのは自分だけではないと母はよく言っていた。帰国者を家族にもつ在日の多くは、国交がないからという理由で日本には見捨てられ、下手に騒げば北朝鮮にいる家族や自分の身も危ぅいという立場に置かれた。
その点、母の場合は父が事業に失敗して以来、在日社会から距離を置くことになったのが逆に幸いしたとも言え、病に倒れる寸前まで語り続けたんです」
それは田氏が朝鮮高校2年生だったころ、リヤカー1台から築いた父の会社が倒産、一家は夜逃げ同然に東京をあとにする。だが、音大受験をめざす彼女は気丈にも一人束京に残り、知人宅に身を寄せてピアノの練習に明け暮れたのだ。
「両親とは連絡すら取れないし、本当に心細かった。でもわかりませんよね、人生なんて。あのとき孤独にたえたから今があり、声楽家として北朝鮮に招かれたからこそ、兄の手紙を母に届けることもできた。そして孤立無援で語り続けた母の思いを継ぐように私はこの本を書き、母や兄や歴史に埋もれさせてはならない名もなき人々のために歌を歌っているんです」
『歌』は国家にも殺せない“生き物“
芸術を愛した両親のもとに生まれ、学芸会では常に主役。そんな幼少時から朝鮮学校時代のエピソードは、のちに田氏が世界中の舞台に立つべくして立った必然を感じさせる。例えば童謡の『うれしいひなまつり』を聴いて、幼稚園児の彼女は<なんて悲しいメロディなのだろう>と思うのだ。
「♪今日はたのしいひなまつり……と歌詞がついているのに♪今日は悲しいひなまつりと歌いたくなった。こんなに悲しいメロディがなんで楽しいのかなって」
歌詞に惑わされずに曲調を感じるその感性は本書でも大いに発揮され、田氏は韓国で
<倭(ウエ)色(セク)(日本的)>や作者の<越北>を理由に歌唱が禁じられた<失われた歌>を探し出す旅に出る。
「歌は理屈ではなく感情に訴える。だからこそ政治に利用されることもあって、韓国でも75年の<歌謡大虐殺>など多くの歌が犠牲になってきた。ただ面白いのは、かつて金日成の抗日パルチザンに歌われた『反日革命歌』の旋律が実は日本の『鉄道唱歌』だったり、メロディだけが生き残る場合もあって、今でも老人達が口ずさんでしまう禁じられた歌からは韓国が歩んできた歴史が教科書で読むよりずっと生々しく感じられた。歌は国家にも誰にも殺せない生き物なんですよね。
そんな失われた歌たちを訪ね歩くようになったのも私自身、ある曲を歌うことを禁じられたからでした」
98年、東京とソウルで行なわれた姉妹都市提携10周年記念公演で日韓両国の歌を歌うことになった田氏は、日本の歌から『赤とんぼ』と『浜千鳥』、そして新たな日韓関係への祈りをこめて岸洋子のヒット曲『夜明けのうた』を選曲する。
だが日本文化が完全には解禁されていなかった当時『夜明けのうた』には演奏許可が下りなかった。そこで彼女は、苦渋の末にある方法でこの曲を歌いきるのだ!
<私は両国の歌を、誇りを持って歌いたかっただけなのだ>   その揺るがない意志は、兄の手紙や母の姿にも通じ、一族の血のようなものにさえ思えてくる。
「我々が生きている“今”だって後世にどう判断されるかはわからないし、その時々の見え方に左右される“大きな歴史”より、自分や家族が生きた歴史を信用するところが私にはある。あれほど信じた祖国に母が裏切られたように、国や思想は個人を平気で裏切る。だからこそ自分はこれだけは譲れないという一線を私は大事にしたいし、兄たちの無念を思えば自分に忠実に生きることが許される人間には、そう生きる責任があると思う。そしてどんなときも自分を信じ、自分に忠実であれと、私は母の背中に教えられたんです」
拉致問題にしてもそうだが、社会的注目やスポットライトが当たる場所は常に限られる。しかしその光の外にも歴史は進行している。その見えない真実を私たちに数えてくれるのは、家族の歴史を埋もれさせてなるものかという個人の思いなのかもしれない。

 

赤旗・文化欄
歌で越えたい壁がある
美しい高麗山河      
わが国 わが愛よ

日本と朝鮮・韓国の歌曲を歌う在日二世のオペラ歌手、田月仙(チョン・ウォルソン)さん。
『海峡のアリア』(小学館)は、朝鮮半島と日本に引き裂かれた一家に生まれた田さんの半生の手記です。
歌にすべてをこめて生きてきた田さんの思いは…。
神田晴雄記者

「母や、名も無く犠牲になった方々の無念を埋もれさせたくない、という強い思いで書き始めました」と語ります。
朝鮮から日本に動員されてきた父。祖父を訪ねて日本にきた母。民族差別と極貧のなかを生きぬいて戦後結ばれた両親の、二女として田さんは生まれました。
母には前夫との間に息子が4人いました。在日朝鮮人帰還事業で海峡を渡った異父兄。20年後、ようやく訪朝がかなった母は4人の消息をつかみます。「韓国のスパイ」容疑で 強制収容所に入れられ、二男は命を落としていたというものでした。
「母はどんなにつらかったか」
一方、異父兄と年の離れた田さんの青春も、荒波にもまれていました。
高校2年生のとき父の会社が倒産します。家族と離れ、たったひとりの受験勉強。
「夜逃げですからひどい状態でした。とにかく一生懸命やるしかないという気持ちでした」
3つの矛盾
朝鮮学校卒業生の受験資格を認めないという差別を乗り越え、日本の音楽大学に入学。卒業後はオペラ歌手の道をすすみ、徐々に舞台を踏むようになります。
85年には招待を受けて北朝鮮で歌を披露し、94年には韓国でオペラ「カルメン」に主演、どこでも絶賛の拍手を浴びます。しかし   。
「(日本・韓国・北朝鮮という)三つの矛盾にたいして筋を通したい、疑問や壁を越えたいという気持ちがずっとありました」
日本による植民地支配とその後の南北分断。北朝鮮による拉致事件。歴史を背負う在日コリアンとして自分が歌うべき歌は何なのか。
「日本と朝鮮半島との複雑で不幸な歴史のなかから生まれた歌たちや、私が生まれる前からの歌には当時の暮らしや善び、悲しみが込められている。そういう歌に慰められたり、何かを越えていく人々の姿がありました。私自身も歌に導かれるようにして新しい出会いがありました。禁止されても人々の心に残った歌は時を超えて生きつづけました」
そして出合った歌が「高麗山河わが愛」(日本語版「山河を越えて」)です。たまたまソウルの市場で手に入れた録音テープのなかに混ざっていました。
(南であれ北であれ いずこに住もうと
みな同じ 愛する兄弟ではないか………
美しい高麗山河 わが国 わが愛よ)
「だれも歌わない、韓国の無名の歌でした。素朴な歌詞ですが、分断によって国土だけでなく人々の心、ことばや歌さえ引き裂かれていった現実を見てきたので、同じ民族ではないかという詞が胸に迫りました。私の思い素直に伝えられる歌です」
母の夢から
月仙という美しい名前は、母が妊娠中に見た夢-満月の光が湖を照らすとそこに一輪の水仙が咲いていた-にちなんでいます。
「必ず善くからね」
2年前に亡くなった母に、執筆中、語りつづけたといいます。
いま、お母さんの無念は晴れたでしょうか。田さんは答えました。
「きっと喜んでくれていると思います」

 

1960年代に夢を抱き、帰国線に乗り込んだがスパイ容疑で強制収容所の送られ、耐え難い苦痛に命を削った4人の異父兄の無念。その事実を知り夜も日も明けぬ悔恨に苛まれた母の慟哭。日本人でも、朝鮮人でも、韓国人でもない「在日」という存在として生きる哀しみ、日本と朝鮮半島に引き裂かれた家族の切なる願い。すべての思いをのせて、歌よ、響きわたれ!
在日初のオペラ歌手として国際的に活躍、金日成を前にアリアを歌い、韓国では日本の歌を禁じられた歌姫が、自らの家族の苦悩と道のりと魂の旅をつづる。 田月仙(チョン・ウォルソン)著 小学館1575円

 

韓国 朝鮮日報

재일교포 성악가 전월선씨, 아픈 가족사 공개
오빠 모두 요덕수용소 수감… 이후 병사·실종
직접 쓴 수기는 日 쇼각칸 논픽션대상에 뽑혀
“北送 네 아들 생각만 하던 어머니 ‘분하다…’말 남기고 눈감아”

“병 상에 누운 어머니의 기억을 되살릴 말은 한마디밖에 없었다. 귓전에다 대고 ‘북한…’이라고 속삭였다. ‘분하다….’ 어머니는 확실히 그렇게 말했다. 그것이 어머니가 남긴 마지막 말이었다.” 재일교포 2세 오페라 가수 전월선(田月仙·49·사진)씨가 자서전 ‘해협의 아리아’를 통해 ‘재일교포 북송사업’으로 빚어진 가족의 비극사를 털어놨다. 조총련계 학교에서 조선 무용과 노래를 익힌 전씨는 1983년 일본의 대표적인 오페라단 ‘니키카이(二期會)’에 들어가 각종 국제공연에서 활약하면서, 일본 오페라계를 대표하는 ‘프리마돈나’로 떠올랐다.

그러나 그에게는 떨쳐버릴 수 없는 ‘악몽’이 따라다녔다. 악몽은 1960년, 전월선씨가 두 살 때 네 오빠가 북한 선전을 믿고 북한에 건너가면서 시작됐다. “소학교 때 사진 속의 낯선 인물을 보고 ‘누구냐’고 물어봐도 어머니는 ‘멀리 사는 친척’이라고만 말했다. 오빠들임을 알게 된 것은 고교 때였다.”

오 빠들의 소식은 북송된 어머니 친구의 편지를 통해 1971년에야 처음으로 알게 됐다. 오빠 4명이 모두 ‘남조선의 스파이’라는 죄명으로 1969년부터 1978년까지 9년간 함경남도 요덕 수용소에 수용됐고, 둘째 오빠는 거기서 죽었다. 누구보다 분노하고 슬퍼한 것은 전씨의 어머니였다.

“그후로 어머니의 인생은 완전히 변했습니다. 아들의 인생을 무참하게 앗아간 북한 정권을 결코 용서할 수 없다는 분노와 절망이 어머니를 버텨준 것 같습니다.” 어머니는 ‘귀국자’들의 참상을 호소하는 고독한 싸움을 시작했다. 북한에 가족을 인질로 잡힌 많은 동포들이 어머니를 찾아왔다. 아들들과 같은 요덕 수용소에 수용돼 있다가 탈북한 강철환(현 조선일보 기자)씨를 일본에서 만난 것도 그때였다. 일본인 납치 문제가 북한의 국가범죄로 드러나기 이전부터 북한의 인권유린을 고발하는 시민단체에서 활동했다.

전씨가 오빠를 만난 것은 1985년 4월, 조총련 권유로 김일성 생일 축하 행사에서 노래를 부르기 위해 방북했을 때다. “평양의 호텔에서 만난 오빠의 눈빛이 마치 암흑 속에 있는 동물의 눈처럼 이상하게 빛났는데, 무언가를 호소하려는 그런 눈빛은 그전에도 그후에도 본 적이 없습니다.” 전씨는 오빠들을 그렇게 만든 사람 앞에서 북한 혁명가극 ‘피바다’의 아리아를 불렀다. “그 후에도 방북 제의가 있었지만, 거절했습니다. 오빠들이 당하는 현실을 알면서 그 체제를 찬양하는 노래를 차마 부를 수 없었습니다.”

큰 오빠와 셋째 오빠는 수용소에서 얻은 병 때문에 1990년, 2001년 차례로 병사했다. 막내 오빠의 소식도 끊겼다. 아들 생각만 하던 어머니는 작년 2월 78세로 세상을 떠났다. “어머니가 돌아가시기 전까지 품고 있던 생각을 기록으로 남기려” 적어 내려간 전씨의 수기 ‘해협의 아리아’는 출판사 ‘쇼각칸(小學館)’이 제정한 제13회 논픽션 대상 우수상에 선정됐다.

 

韓国 京郷新聞

자서전 ‘해협의 아리아’ 를 펴낸 재일동포 2세 성악가 전월선씨. <도쿄/박용채 특파원>

그에게 조국은 남도 북도 아닌 한반도다. 스스로도 민단계나 총련계의 편가르기가 싫어 ‘재일 코리안’이라는 용어를 쓴다. 노래를 할 때는 정치적 배경이나 개인적 삶은 철저히 봉인한다. 이런 마음은 가곡 ‘고려산천 내나라’에도 그대로 녹아 있다. “남이나 북이나 그 어디 살아도 다같이 정다운 형제들 아니련가. 동이나 서나 어디 살아도 다같이 정다운 자매들 아니련가….” 전월선(田月仙·49)씨. 재일동포 2세 성악가. 남과 북을 오가며 노래해 ‘해협을 넘나드는 가희(歌姬)’란 수식어가 따라붙는다. 그는 붉은색을 좋아한다고 했다. 단순히 정열을 상징해서가 아니다. 핍박, 풍파를 넘기 위해서는 강해야 한다는 마음다짐 같은 것이었다.



‘노래하는 것은 프로지만 글 쓰는 것은 아마추어’라는 그가 지나온 삶을 반추한 자서전 ‘해협의 아리아’를 냈다. 책은 지난해 말 일본 유명출판사인 쇼카쿠칸 논픽션 대상 우수상을 받았다.

“삶을 되돌아보기에는 이른 나이지만 꼭 쓰고 싶었어요. 가슴에 묻어뒀던 얘기가 너무나 많았거든요.”

전씨의 출생지는 도쿄(東京)도 다치가와(立川)시. 총련계 초·중·고교, 도호(桐明)학원 음대를 거쳐 1983년 일본의 대표적 오페라단인 니키카이에 입단, 성악가로 데뷔했다. 이후 오페라 ‘나비부인’ ‘피가로의 결혼’ 등의 프리마 돈나로 자랐고, 일본을 비롯해 미국, 유럽은 물론 평양과 서울을 오가며 공연을 개최했다. 외견상 거칠 것 없어 보이는 삶이지만 가슴 속에는 시린 기억으도 가득하다.

경남 진주에서 학도병으로 끌려온 아버지, 동향 출신의 어머니. 리어카 1대로 폐품을 수집하며 살았던 부모들의 삶. 치마저고리를 입고 다녔던 재일동포 소녀시절, 노래를 하고 싶어 음대를 지원했지만 조선인이라며 문전박대당했던 설움, 조국인 한반도와 삶의 터전인 일본사회 속에서의 갈등…. 어느것 하나 가슴 저미지 않는 대목이 없다.

책에는 단 한번도 입밖에 내지 않았던 오빠 4명의 북송 얘기도 들어있다. 민족학교 일을 하던 아버지는 당시 한국계 학교가 없어 자연스럽게 총련계 일을 맡았고, 조국 건설이란 이름으로 자식(전씨의 오빠) 4명을 북송사업에 동참시켰다. 전씨가 두살배기였던 1960년이었다.

전씨가 북송 사실을 처음 알게 된 것은 고교때였다고 했다. 85년 평양을 방문, 당시 김일성 주석 앞에서 첫 공연을 펼친 뒤 오빠들과의 면회가 이뤄졌다. 그러나 절망스러웠다. 오빠들은 북한에서 간첩혐의로 수감돼 9년간을 강제수용소에서 지냈다. 둘째 오빠는 이 과정에서 사망했고, 남은 3명 중 2명도 차례로 죽었다.

어머니는 오빠들의 비참한 죽음을 듣고 일본에서 북한 인권을 고발하는 투사로 바뀌었고, 2005년 병으로 쓰러졌다. 북한에 한(恨)을 가질 법도 하지만 대답은 예상밖이었다.

“우리 가족들은 물론 동포들의 삶은 정치에 희롱됐습니다. 분단이 그렇게 만든 것이죠. 물론 일본도 책임에서 벗어날 수는 없지요.” 그는 이 때문에 이번 자서전이 북한 때리기로 이용되는 것은 사양한다고 강조했다.

북한 방문뒤 94년에는 서울에서 카르멘을 공연, 남북에서 동시 공연한 첫 성악가가 됐고 이후 한국에서도 자주 공연을 가졌다.

다만 개인적 아쉬움은 있다. 북한은 이동과 언론의 자유가 없는 게, 한국은 정권이 바뀌면 대북 정책 방향이 바뀌는 현상이 못내 답답하다고 했다. 재일동포의 아픔도 얘기했다. “재일동포는 일본, 한반도 어느쪽에서 봐도 이방인입니다. 부모 세대에 비하면 고생한다고 할 수는 없지만 항상 모순 속에서 살아갑니다.” 색안경을 쓰고 자신들을 바라보는 시선이 버겁다는 뜻이다.

“새해 희망이요? 핵문제가 해결되고 평화가 온다면 그만큼 좋은 일이 없겠지요. 개인적으로는 노래를 통해 남북을 한마음으로 잇는 일에 더욱 전념하는 것이고요.”

 

 

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TBS 치쿠시 테츠야 NEWS23 먼데이 플러스에서


筑紫哲也さんとの対談の様子

 

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