田月仙(チョン・ウォルソン)の歩むところ
唐 十郎
この神経質な廃都の中で、田月仙ほどの巨(おお)きな女性とめくるめく歌声をわたしは知らない。
初めて舞台の彼女を観たのは、お茶の水にある小さな会館であったが、舞台を一歩すすんだとたんに、張り詰めたヴァリアー(膜)を抜けるように、切るように、そのアウラが現前化してくると思った。
1997年の<薔薇物語>のパンフレットには、両手をひろげた田月仙の写真が載っており、その止まった物腰は、果てしなく伸びやかであるが、それが、舞台で動き出すと、辺りを巻き込み、観客の目を釘づけにして、とてつもなくスケールの大きな世界へ引きずりこんだ。
その歌声は、都市の細いビル裏にも潜りこむが、海にも向かい、対岸の異国を巡って散った花、暗雲、今も迷う人々の声とも重なっていく。そして、いつか、わたしは、歌っている彼女の足並、その足元に目が吸いつけられていた。
その立ち姿は美しい。が、そのリュウとした立ち方よりも、彼女の思いが、何を踏みしめ、震えながら何に声をかけているのかが、その魅力を解く鍵であるように思えた。
この歌い手は、歌いつづけるべき<座標軸>を探って歩んでいる。
この度歌われている歌詞カードを読みながら、「朝つゆ」の終章を見ると、歩みのアンソロジーとなっている二行が目にとびこんできた。
「さあ 行こう あの荒れはてた広野へ
悲しみをすべて捨て 私は行く」
その前の一行は、真昼の燃える暑さが、自分にとっての試練でもあるという。
とつぜん、わたしは、ボードレールの詩を思い出した。それは、学生時代に読んで忘れられない一つの詩であったが、「ジャンヌ・マリー」という。
「ジャンヌ・マリーの手は黒い
夏が 焦がした
黒い手だ」
<文学と悪>の中に引用されていたこのミステイフイケートな一本の黒い手が、なんの実効性を持つのか分からなかったが、田月仙の歌うその声の中に現れるとなると、なんとも嬉しい<デ・ジャヴ>(即視の夢)を感じるではないか。
つづいて「鳳仙花」の中にも気になるものが現れた。それは、夏の日に見た乙女たちのような花びらの、変わりゆく姿を述べたものだ。
「美しい花びらをむごくも侵せしに
花落ち老い果てた お前の姿いたわしい」
これは、フランソワ・ヴイヨンの「去年(こぞ)の雪、今、何処(いずこ)」の復活でもある。
そうしてみると、田月仙の歌う悲歌(エレジー)の源は秋風に吹き飛び、忘却されていくようなものではない。
なにもないものの所へ、誰が行くものか。この歌姫は、荒れ果てた広野へ向かう。とすれば、その踏みしめる足元から、「むごさ」や「焦げつき」に耐えた幾つもの歌の芽が伸びてくるのであろう。
聴衆よ、
田月仙の腕に抱かれ、その歌声に悶死しなさい。
唐十郎(からじゅうろう)劇作家
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