2006年12月17日 朝日新聞 「ひと」欄

自叙伝でノンフィクション賞を受賞した声楽家

田月仙(チョン・ウォルソン)さん

「文句なしに面白い素材だが、文章に『香り』がない」という理由で小学館ノンフィクション大賞を逃し、優秀賞に選ばれた。授賞式では前選考委員から「大賞でないのはおかしい」と異論も出た。16日発売の自叙伝「海峡のアリア」(小学館)。賛否両論を聞いて「読むと一言いいたくなる引力。作品にそれがあることが確認できました」。

 東京生まれの在日2世。音楽を志したが、朝鮮学校卒を受験資格と認めない音大に軒並み門前払いされた。唯一門戸を開いた桐朋学園短大に入学し、1983年デビュー。幼少時から民族歌舞劇で培った歌声と舞踊が認められ、各国でオペラに主演。2002には日韓首脳の前で歌った。

 帰還事業で北朝鮮に渡った4人の兄について今回初めて詳しく明かした。兄との面会は1985年、金日成主席の前で独唱した数日後に実現する。会えた3人は政治犯収容所に9年間入れられた後で、1人はすでに亡くなっていた。

 北朝鮮の人権状況を訴え始めた母は病に倒れた。気力を取り戻してほしいと願い、母の心を占め続けた言葉を耳元でささやいた。「北朝鮮」。母は「悔しい」と答え、それが最後の言葉となった。

 「月下に咲く水仙」の夢を見て、月仙と名づけてくれた母。無念の思いを「十五夜の月」という詩に残した亡き兄。寝る前には窓を開け、夜空に月を探す。