深田祐介のゆうゆうトーク

 昨秋ソウルで開催された、日韓文化交流の新時代を拓く「東京ソウル友好都市提携10周年記念音楽祭」で、公式に初めて日本語で日本の歌を歌ったオペラ歌手さん。それに先立つ1997年の文化庁芸術祭には、外国籍音楽家として初参加も果たしている。「国際化」という言葉をその存在と活動で、ひとつひとつ確実に具現化してきた田さんをゲストに迎え、近況、そして、さまざまな想いを語ってもらった

 

田月仙 東京生まれ。ソプラノ・オペラ歌手、二期会所属。1985年『声』『スペインの時』の主得でオペラデビュー。『フイガロの結楯』『サロメ』『椿姫』『道化師』などオペラの主役を演じる。85年に平壌の世界音楽際に出演、94年にソウル定都600年記念特別公演『カルメン』でタイトルロールを演じる。96年、歌曲『高潔山河わが愛』と共に日韓のマスコミで話題になり、同年大晦日の韓国版紅白歌合戦に日

本から初出場。97年『リサイタル薔薇物語』で文化庁芸術祭に外国籍書楽家として初参加。98年10月、ソウルで開催された「東京ソウル友好都市提携10周年記念音楽票」にて、日本語で日本の歌を歌った。

 

深田 5年ほど前、僕が週刊誌に『暗闇商人』という小説を連載していたときに、朝鮮半島のことを田さんからいろいろ教えていただいたんですが、田さんは在日2世の第一線オペラ歌手として、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と韓国両方で歌われたという経験をおもちなんですね。また、昨年の秋には、韓国で初めて日本語で歌を歌われて、マスコミでも大騒ぎになつた。

田 はい。ソウルと東京の「友好都市10周年」ということで、私が東京都から親善大使として派遣されたんです。

深田 年代順に言うと、北朝鮮に行かれたのが最初ですか?

田 1985年に平壊に行きまして、94年がソウルです。ソウルには「カルメン」のカルメン役で行ったんですが、私はそのときが初めての祖国訪問だったんです。私の両親は韓国の慶尚南道出身で、そのときに先祖のお墓参りもしたんですけど、私にとっては「祖国は韓国で、故郷は日本」という感じが強かったので、韓国ではちょつと異邦人的な感覚もありましたし、とても複雑な心境だったんです。

深田 なるほど。日本生まれ、日本育ちなわけだから、情緒的ないわば感性の故郷は日本なんだけど、ルーツという意味での理性の祖国は韓国であると。

田 それで日本に帰って、ちょうど次のリサイタル用の歌を選んでいるとき、たまたま韓国で振ったビデオの中に偶然流れていた曲がとても印象に残ったんです。

 

 ♪南であれ 北であれ

  いずこに住もうと

  皆同じ愛する兄弟ではないか

  東や西 いずこに住もうと

  皆同じ懐かしい姉妹ではないか

  山も高く 水も清い

  美しい高麗山河 わが国わが愛よ

 

という歌詞が私の気持ちとぴつたりで、どうしてもこの歌を歌いたいと思ったんです。私自身、南北両方の朝鮮半島での公演を終えて、自分の祖国が現実に分断されていることを肌で感じてきたうえ、私は日本で生まれて日本で育っている。そうしたさまざまな痛みを流して、それらを乗り越えたいという、気持ちが、この歌の心と一致したんですね。でも、誰が作曲したのかわからないし、楽譜もなかったので、仕方なく自分で楽譜を起こして、機会があるごとに歌っていたんです。

深田 それが「高麗山河わが愛」ですね。

田 そうなんです。この話には続きがあって、私の歌が偶然これを作曲した人の耳に入って、ある日アメリカから楽譜と手紙が送られてきたんです。在米のコリアンの曲だったんですね。

深田 その人はアメリカで何をやっていたの?

田 朝鮮戦争の前後に歯科の留学生としてアメリカに渡り、歯科医をしていました。

深田 耳鼻咽喉科ならともかく歯医者と歌って関係あるのかな(笑)。

田 その人も昔、声楽をやっていたそうですから、関係あったんですね(笑)。それで、兆年にアメリカに行ったとき、その歯医者さんと感動的な出会いをしたんですけど、そのへんの経緯がドキュメンタリーになつていて、日本と韓国で放映されたんです。韓国ではこのドキュメンタリーが評判になつて、私は96年の”韓国版紅白歌合戦〃に初出場して「高麗山河わが愛」を歌ったんですよ。

深田 へえ。韓国にも紅白歌合戦があるの。

田 すごいんですよ−。オリンピックのときの屋内体育館でやるんですが、そこは4、5万人収容できるんです。

深田 4、5万人(笑)。半端な数字じやないな。

田 川時頃から夜中の2時半ぐらいまで延々と続くんですけど、途中、12時になると除夜の鐘が鳴って。

深田 韓国なのに? 除夜の鐘もあるわけ? あれは日本の専売特許でしょう(笑)。

田 ソウル市の鐘なんですけど、市長が鐘を叩いてカウントダウンをやるんです。すごく盛り上がるんですよね(笑)。

深田 いわゆる”国民的番組”なわけだ。田さんの認知度も急に高まつたでしょ。

田 おかげさまで。「高麗山河わが愛」はあまり知られていなかったし、やはりすごく胸を打つ歌ですから。

深田 それが冒頭の「友好都市10周年」

 

『高麗山河わが愛』の歌詞が私の気持ちとぴったりで、どうしても歌いたかったんです』。

 

韓国では美男で知られている歌手のディナーショウに行く女性たちなんだけど、その中の誰かが「あれ、深田さん」なんて声をかけてくるんですよ。ぎょっとしてよく見ると、全部日本人の女性で、関西弁で「はよ、いこ。始まるでー」なんてやっている(笑)。

田 へえ(笑)。

深田 だから、韓国の大衆文化は日本人にとってはすごく親近感があるし、交流が進めば理解もいよいよ進むんじゃないかと実感しましたけどね。ある民族学者は、日本の演歌のルーツは朝鮮半島の労働歌であるということを言っていましたけど、これはどうなんだう。

田 民謡なんかを比べてみると、韓国のほうは騎馬民族的に3拍子が多いんですね。日本はどちらかというと、農耕民族的で4拍子が多い。そういう意味では全然違うものなんですけど、結局お互いに影響しあってますからね。

深田 そういう文化の伝承というのは恐ろしいもので、この間字幕付きで京劇を見たら、あれはまつたく歌舞伎と同じなんですね。見得の切り方や、義理、人情の世界なんて、本当に日本の歌舞伎と全然変わらない。考えてみれば、日本文化は大陸から朝鮮半島を経由してきたわけだから、共通していないわけがないんですよね。

田 言葉の問題もあれソますけど、アジアの文化はやはり共通しているものがありますから、たとえば音楽を通して喜びなんかは共有できると思いますよ。

深田 そうそう。感情の共有ですね。そこに音楽による文化交流のすばらさがありますね。「ソウル讃歌」や「別離」を聴いていると、確かに感情を共有できるし、僕は個人的に「イムジン河」も大好きです。カラオケで「イムジン河」を歌う日本人は多いんじやないかな。

田 「イムジン河、水清く とうとうと流れ」ですね。私も好きです。

深田 話はまつたく変わって、今思い出したんだけど、

田さんがいつか言っていたことで、「在日の人の韓国語には日本の北がある」って、あれは本当なの?

田 ありますね。私たちはどちらかというと、「〜〜しました」と、きつちりした韓国語の会話を勉強しているんです。でも、実際に韓国の人たちがしゃベる言葉にはもっとやわらかい話し言葉があって、そういうのを私たちは簡単にしやべれないんです。最初に韓国に行ったとき、記者の人から「ずいぶん高級な言葉を使うね」と言われたことがあるんですけど、どうしても私たちの場合は文章丁言葉になつてしまうんですね。ソウルの人は「〜〜がヨ」って最後に「ヨ」を付けるとかわいい、柔らか

い言い・万になるんですけど、日本語で「〜がよぉ〜」っていうと、がさつな感じでしょ(笑)。だからあまり口から出てこないんです。

深田 韓国で寿司屋に入ると「アンニョン・ハセヨ〜(こんにちは)」と言われるけど、あれは違うか(笑)。田さんが音楽の道に進まれたのは、やはり小さい頃からの環境が大きいですか。日本には在日の人たちの歌劇団もあるし、しよつちゅ、ついろんな出し物を上演なさってますょね。

田 そうですね。民族学校に行ってましたから、踊りや演劇など、小さい頃から舞台に立つことが多かったんですょね。子役時代は主役を務めていたこともあって、舞台には慣れていたんです。それで、初めてオペラを観たときに心が決まつたんです。オペラには、オーケストラも舞台美術も舞踊も演劇も歌も全部ある。総合芸術として自分が最もカを出せるのはこれなんじやないだろうかと。

深田 僕は田さんのフラメンコの練習場も見せていただいたことがあるんですよね。

田 フラメンコを始めた初期の頃ですね。あれから上達したんですよ。「カルメン」を演じるとき、他のオペラ歌手はどうしても踊りがちょつとたどたどしいんです(笑)。私はたまたま小さいときからジャズダンスやタップダンスもやっていたので、どうせやるならフラメンコもちゃんと踊りたいと思って習ったんです。

深深田 これからのご予定はいかがなんですか。

田 近々、日本と韓国の歌をレコーディングしたCDを両国で同時に発売する予定でいます。

深田 金大中さんが大統領になられて、新しい日韓関係の夜明けを迎えつつありますけど、この数年で文化交流は急速に進むでしょうね。

田 昨年、ちょうど私が韓国に行っているときに、つかこうへいさんの舞台のオーディションをやっていましたから、つかさんの舞台も上演される予定があるみたいですし、北野武監督の『HANAIBI』も98年12月に一般公開されました。

深田 まさにこれからはあなたの時代じやないですか。歌姫として、どんどん国境を超えていただいて、日韓文化交流の「夜明け」から本物の太陽を昇らせていただきたいですね。

 

深田祐介◎作家。日本航空勤務のかたわら、執筆活動を始める。1982年『炎熱商人』で直木貰を受害したのを機に、83年、日本航空を退社。アジア情勢に詳しく、アジアを舞台にした作品も多い。近著に『鍵は朝鮮半島にあり』『アジアは復活するのか』『高感度人間の人生学』など。

 

 

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