薔薇物語の歌姫 田月仙

ひと月ほどかけてカリフォルニア州と東部の諸州を回った司馬遼太郎は、現地の日系人から開いたこんな語を、『アメリカ素描』(読売新聞社刊)のなかで紹介している。

 《おもしろいことに、ウメボシをつくるために日本の梅まで植えられていた。

「それがちょっと変なんです」

 最初の年は、たしかにりっばな梅の実がなった。

翌年もみのったが、三年目には、アメリカによくある黒ずんだプラムになってしまつたという》

 梅とプラムではルーツがちがう。なのにアメリカの土を長年食むうちに、すっかりアメリカの果樹になってしまったというわけだ。

 在日コリアンのオペラ歌手チョン・ウォルソン(田月仙)は、自分のアイデンティティを訊かれるたびに、こう答えることにしている。

「故郷は日本で、祖国は朝鮮半島です」

「祖国」が2つに分かれている現状で、彼女は「韓国」でも「朝鮮」でもなく、「朝鮮半島」と表現する。

 しかし彼女のなかでは、さらに「コリアン」と「ジャパニーズ」双方のアイデンティティが拮抗している。なぜなら朝鮮半島には、自分とはおよそ異なる人種が暮らしていたからだ。

また彼らも、彼女をコリアンとして安け入れようとはしなかった。

 大きな瞳で見据えながら、披女は言う。

「私自身も世代的には3世ですから、なかには”自分たちは完全に日本人だ”と言う人も多いんです。

民族学校で勉強していたころは、”私の祖国は朝鮮半島であると思ってました。

でも実際に朝鮮半島に行ってみると、自分たちは向こうの人よりも日本に近いというのがよくわかるんです。

それは1世の人たちも同じで、ずっと何十年も行かないで久々に帰ってみると、やはり自分たちには住めない国になってるんですね。

浦島太郎じやないけど、自分の故郷が日本であることに、そこで初めて気づくんです」

 台湾生まれの祖父の代から東京に居を構え、祖母が日本人という筆者の場合は、彼女よりもその意識が強い。土とは不思議なものである。

 生まれたときから日本で暮らしてきた筆者やチョン・ウォルソンは、いわばプラムから梅になった変種の日本人である。

だから彼女は二者択一を迫られたときに、「コリアン」でも「ジャパニーズ」でもなく、「エイジアン」と答えることにしている。考えてみれば、日本人もエイジアンであることに変わりはないのだが、じつは、日本人に最も欠落した感覚なのかもしれない。

 

85年には平譲に行き、金日成の前で歌った。

 

 意外に思われるだろうが、朝鮮半島ではオペラ人気が高い。アジアの先進国のなかでも、2300席ものキャパをもつたテアトル(オペラシアター)があるのは韓国だけだという。

「朝鮮半島のオペラの経史はそれほど古くはないんですよ。でもイタリア半島と朝鮮半島は地理的にもよく似ていますし、日本のアーティストにくらべると、コリアンはすごくパッションがありますよね。

オペラ劇には殺傷沙汰とか復讐劇とかいったストーリーが多いので、朝鮮半島の民族性自体がオペラ向きなんだと思います」

 チョン・ウォルソンは、くすくすと笑いながら続けた。

「ほら、日本って、どうしても感情を秘めることが美徳みたいになってますよね。だけど私が韓国へ行って向こうの人に逢うと、何事にもすごく積極的なんですよ。”いやぁ、スゴイなぁ”って、本当に驚かされました」

 民族学校から桐朋学園短期大学に進学した彼女も、性格はかなりアクティブなほうだった。しかし韓国で出逢った人びとは、その彼女の上をいく激しい性格の持ち主ばかりだった。すくなくとも表面上は、彼らと由分とではちがう人種に思えるのだった。

 1994年「ソウル定都600年」を記念して、韓国オペラ団と東亜日報社がオペラ公演を共催した。チョン・ウォルソンは、『カルメン』の主役を演じた。

 彼女には、これが韓国での初舞台である。

85年には平壌で開催された「世界音楽祭」の舞台にも立ち、金日成の前で歌っている。それだけに、万感の思いだった。

「私たちが日本で生まれた当時は、朝鮮籍しかなかったんですよ。だから在日といえば、みんな朝鮮籍だったんですね。ところが、そのあとに政府が2つできまして、それで韓国籍を取得する人が出てきたんです。だけど私の両親のように、手続きが面倒くさくて、そのまま朝鮮籍の人もいるんです。

 ですから朝鮮籍だから北の生まれかというと、必ずしもそうではないんですね。私は緑があって北で歌うことができました。

”だったら次は南でも”という気持ちが、平壌公演以来、すごく強くなっていったんです。だから南北両方で歌えたのは、一つの大きな区切りになりました」

 チョン・ウォルソンの両親も、南の慶尚南道出身である。しかし国簿は北だった。

朝鮮籍はなにかと不便が多い。自由な海外渡航ができない。とりわけ彼女のようにヨーロッパ文化のオペラを学び、生業としている者には、じつに重い足かせとなる。

90年から韓国のオペラ界の注目を浴びながら4年も待たされた。韓国公演が実現したのは、93年に国籍を北から南へ切り替えてからわずか1年後のことだった。

 このときもし国籍を変えていなければ、現在の彼女はなかっただろう。

『ハンギョレ新開』は、チョン・ウォルソンの公演前に彼女のことを少々扇動的にこう紹介した。

《舞台の領域を広げるため、韓国国籍選択。歌で南北を結ぶ歌手。二つの祖国を強要された分断の被害者》

 世界の歴史を振り返ると、政治利用される科学者や文学者は多い。アーティストもその例に漏れない。科学、文学、芸術といった分野には、国境がない。彼らが名を成せば成すほど、治世者には利用しやすい存在となる。だが分断の歴史を背負った韓国で大喝采を浴びた彼女の舞台には、日本育ち独特の感性があったようにも思う。それは第2幕で見せた、本格的なフラメンコダンスである。

「最初にオペラを観たときに、これは総合芸術だと思ったんです。だけどオペラはマイクもなしに、何千人もいる劇場でやるわけですから、どうしても歌がまず第一になりがちなんですね。でも今までの『カルメン』を観ると、カスタネットで踊る場面がなんかみっともないんです(笑)。カルメンというのは、すごく魅力的な女じやなきやいけないのに、肝心なところできちっと踊れる人が少ない。それが、私のなかでずっと引っかかってました。

 だから舞台が決まったときから、フラメンコを本格的に習い始めたんです。アントニオ・ガデスがフラメンコで踊りながらケンカする場面を少し取り入れて、私自身が踊りながらやってみたんです。それが、向こうではいちばんぴっくりされたようですね。演劇的に見ても素晴らしいということで評価されたんだと思います」

 役作りに徹する彼女の緻密な作業は、いかにも日本人的である。

 

運金的な曲との出逢い。作者はワシントンに。

 祖国から故郷へ 帰国々したあと、彼女は運命的な曲と出逢うことになる。それが、『高麗山河わが愛』だった。

「南北公演を実現したということで、戦後50年にあたる95年に、東京で大きなリサイタルを開いたんですよ。その曲目を選んでいたときに、『高麗山河わが愛』が入ってるオムニバスのCDを見つけたんです」

 題名すらも知らなかったが、以前にも聴いた覚えのある曲だった。ソウルを訪れた際、彼女の知人が韓国の民族酒場で録音したテープのなかに、同じ曲が偶然入っていたのだ。

 南であれ北であれ、

 いずこに住もうと、

 皆同じ愛する兄弟ではないか。

 東や西、いずこに住もうと、

 皆同じ懐かしい姉妹ではないか。

 山も高く、水も清い

 美しい高度山河。

 わが国、わが愛よ。

 

 CDの作詞作曲者はノ・グァンウク(慮光郁)となっていたが、彼がどこの誰かもわからない。メロディも歌詞もひどく単純なものだった。だが彼女は、なぜかこの曲に心を強く惹かれていく。

「歌詞を聴いていると、不思議と涙が出てくるんです。”いずこに住もうと皆同じ愛する兄弟”なんて、当たり前の話ですよね。でもコリアンは、いまの時代になってもそれができていない。私のように日本にいても総連(在日本朝鮮人総連合会)と民団(在日本大韓民国居留民団)に分かれているし、南北分断の影響を私はずっと見てきたわけですよ。

 傷ついた人たちがいっばいいました。互いに疑心暗鬼になったり、様々な問題を引きずってきました。だからこの歌に再び出逢ったときに、ぜひこの歌を歌って、在日の人たちにも、日本人にも、そして世界の人たちにも訴えていきたいと思ったんです」

 北朝鮮でも韓国でも、ほとんど知られていない歌だった。しかし、彼女の体内に睨る血を無性に騒がせる歌だった。こうして95年のリサイタルで初めて歌ったのを皮切りに、『高度山河わが愛』は、本国よりも、むしろ在日のあいだで知られるようになる。 在米コリアンの音楽団が来日したのは、そんな折だった。彼らと接したチョン・ウォルソンは、そこで衝撃的な事実を耳にする。なんと『高策山河わが愛』の作者がアメリカに住んでいるというのだ。

「彼らがアメリカへ帰ったあと、作者から突然、楽譜と手紙が届いたんです。手紙にはこう書いてありました。あなたの噂を開いて、私はとても感激しています。いまや音楽家のなかでも、自分の祖国のことを考えている人はひじょうに少ないと」

 96年4月、ロサンゼルスのコリアンフィルハーモニーの招きで、チョン・ウォルソンはアメリカの舞台に上がった。アメリカには在日の約2倍にあたる100〜150万人のコリアンが祖国を離れて生活を送っている。ワシントンで歯科医院を開業するノ・グァンウクもその一人だ。

 西海岸での公演を終えた彼女は、作者に逢いたい一心で、東海岸にある彼の自宅に駆けつけた。温かく迎え入れたノ・グァンウクは、彼女の手を握りながら、感激のあまり思わず鳴咽の声をし漏らすのだった。

「祖国から速く離れると、祖国の人間よりも愛国者になるんですよ……」

  ノ・グァンウクは1922年、平壌から50キロほど南南へ下った南沌で生まれた。

今年で75歳になる。日本の植民地だったソウル大学時代、反日本帝国主義者音楽同盟を結成し、舶年にはリサイタルを開いたこともあるというから、ゆくゆくは音楽家を夢みていたのだろう。

「ノ・グァンウクさんは朝鮮戦争休戦中の55年に歯科医の留学生としてアメリカへ渡った。というのも、韓国では北朝鮮寄りじやないかと言われて迫害され、なおかつ北の人民軍への入隊も拒否したために、南北両方から反逆者扱いされてしまつたからです。アメリカでは音楽家として食べてはいけない。だから歯科医になったと開きました」

南北の諍いに幻滅してアメリカへ渡ったもの、やはり土は忘れがたい。そんな想いを込めて作ったのが、『高東山河わが愛』だった。

 チョン・ウォルソンを感動さゼたこの歌が、肝心の本国で歌われなかったのには理由がある『韓国地名沿革考』によると、朝鮮半島を表す言葉として「青丘」「鶏林」「謹域」「千里銘繍江山」など、じつに194もの呼称があるのだが、南北それぞれで、好んで使う言葉にムラがあるというのだ。

たとえば「高麗」は英語の「KOREA」の原型と思われるが、その音感は北の色彩が強く、韓国ではほとんど使われていない言葉だという。

 同じく「朝鮮」も、韓国では朝鮮ホテルと『朝鮮日報』でしか使用を許されていない。韓国といえば、いまだに日本の映画や音楽が解禁されていない国である。

ポリティカル面での線引きが、極めて厳しい。そうした国で『高鹿山河わが愛』を歌うには、かなりの勇気が必要とされるわけだ。

 チョン・ウォルソンがアメリカへ渡った96年、韓国のKBS放送は『チョン・ウォルソン2年半の記録。高靂山河を探して』と題し、彼女のドキュメンタリー番組を放映した。そのなかでは、『高麗山河わが愛』を歌ったロサンゼルス公演も取り上げられ、韓国全土に流された。

 「民団の人にも言われましたよ。”あの歌は北の歌じやないの”って。それぐらいタブーになっていた在米コリアン作曲の歌が私のような在日コリアンによって本国にも紹介されたということに、私は大きな意義を感じてます。”私がこれからやるべきことも、いろいろあるんだなぁと思いましたね」

 オペラ歌手として活動を続ける彼女は、雲散霧消しつつある海外コリアンの血を繋ぎとめるうえで、貴重な架け橋ともなり得る存在だ。それだけではない。南と北を「ワンコリアン」に再生する可能性さえも観めている。

 現在のところ、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場やミラノのスカラ座で主役をとれるアジア人は、林康子や渡辺葉子をはじめとする日本人にかぎられている。

しかしヨーロッパの著名なヴォイストレーナい、カンボ・ガリアーニは断言する。「イタリアンに最も近い声質をもつのは、極東のコリアンだ」。コリアンのオペラ歌手が日本人のそれをしのぐのは、時間の問題なのかもしれない。チョン・ウォルソンは、まちがいなく、その有力候補の一人だろう。

「日本の芸術の世界では、それほどの差別はありません。

でもチョン・ウォルソンという名前でやっている以上は、日本人と同じレベルで並んだ場合、何か優れた点が一つでもないと主役をとるのは難しい。だから歌だけじや足りない。私にしかできないものがなちゃダメなんです。今年になってから毎月のように韓国でリサイタルを開けるようになりましたが、以前は向こうでも、在日に対して少し下に見る傾向がありました。でも『高麗山河』で知名度を上げてからは、ものすごくこうなりますね」

 そう言って、彼女は端正な顎のラインをクイッとしやくり上げた。しかしその顔つきは、どう見ても「梅」なのであった。

 

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