田月仙と『カレイスキーのアリラン』

Ариран (アリラン)

Музыка (作曲) Ким Сан Хо
Слова (作詞) Мен Док Ук

 

 

Чон Вольсон

Сопрано. Член Никикай. Представитель второго поколения семьи этнических корейцев, постоянно проживающих в Японии.
Наряду с концертными и оперными выступлениями по всему миру, известна как единственная певица, выступавшая
перед лидерами Японии, Южной и Северной Кореи. Многочисленные поклонники называют её голос и исполнение одухотворённым и проникновенным.

Ей были посвящены специальные программы японского (NHK "Дива обоих берегов") и корейского (KBS "Ария пролива")
телевидения.

В 1987 году Чон Вольсон впервые исполнила в Японии произведения русского авангарда, чему также была посвящена
специальная телевизионная программа.

Также впервые в Японии будет исполнена песня "Ариран", авторов, принадлежащих к Корё-сарам (этнические корейцы,
проживающие в России со второй половины ХIХ века). Автор музыки Ким Сан Хо проживает в Москве,
автор слов Мен Док Ук - в Хабаровске.

チョンウォルソン(Chon Wolson)

ソプラノ歌手。二期会会員。在日コリアン2世。


世界の舞台でオペラやコンサートに出演する一方、日本・韓国・北朝鮮の首脳の前で独唱した唯一の歌手としても知られている。その「祈り」とも言える歌はファンも多く、「魂をゆさぶる歌声」と、反響を呼んでいる。

日本国営放送NHK「海峡を越えた歌姫」や韓国国営放送KBS「海峡のアリア」など特集番組も放送された。


チョンウォルソンは1987年には日本で初めてロシア・アヴァンギャルドを日本で初演。テレビの特別番組でも紹介した。

今回のカレイスキーのアリランも日本初演。

 

ロシアや旧ソ連の国々には、数多くのカレイスキー(韓人・高麗人)が住んでいる。2004年8月。私は、ロシアのハバロフスクで行われるカレイスキーたちの「祖国光復記念行事」に招かれ、歌を披露することになった。
 
アムール川の右岸に位置するハバロフスク市内の野外公園。光復59週年を祝う式典には、地元のカレイスキーを中心に、色とりどりの民族衣装をまとったロシアの小数民族の人々が、たくさん集まっていた。それぞれの少数民族の歌舞も披露され、お祭りムードでにぎわっていた。
 ホテルでは、朝鮮半島にルーツを持つカップルの結婚式が行われ、この土地に住むカレイスキーがたくさん参列していた。宴席には、白い肌で体格の良いロシア人たちもいて、和やかにお祝いの宴を繰り広げていた。親族の方が、日本から来た私とは一面識もないにも関わらず、是非にと席を用意してくれた。
 テーブル一杯に並べられた料理は、キムチや、チヂミ、ナムル、蒸した豚肉、カルビ炒めなど、韓国のものとほぼ同じだった。
 新郎新婦は、見た目は韓国人と何も変わらない。でも、若いカップルは、この土地でもう3代目になり、韓国語は話せない。名前はロシア式だが、姓は韓国姓を名乗っている。
 ご両親や年配の親戚、その友人達は、韓国語で私に話しかけてきた。
 「私たちはいつか韓国に帰ろうとずっと思って暮らしてきたし、息子達もいつかは行くだろうから韓国式名前を守ってきました」
 新郎のソンさんの母親は、誇らしげにそう話した。
 高麗人協会のパクさんは、「昔、金正日(キム・ジョンイル)に母乳を与えていたアウグスタ・セルゲブナお婆さんが少し離れたところに住んでいて、会ったこともあるんだよ」と茶目っ気たっぷりに話した。
 私は、日本での在日コリアンの結婚式を思い浮かべていた。日本では、在日コリアンの結婚式に日本人が参列しても、同じアジア人同士なので、見た目には違いはない。
 しかし、ロシア人とカレイスキーでは、まったく容貌が違うので、異なる民族同士が同じ席を囲んでいるのだということが、いやがおうでもはっきりと見てとれた。
 カレイスキー達の歴史に思いをはせた。
 彼らのとてつもない苦労と、望郷の思いが、この手作りの韓国スタイルの結婚式となって、目の前に在るのだと思うと、胸が熱くなった。

 8月15日夜。59回目の「光復節」を祝う祝賀公演が行われた。
 ミュージカルコメディ劇場内部は、西洋のオペラハウスの建築様式を思わせる、とても立派な作りだった。ハバロフスク州の知事も参加し、軍楽隊の奏でる厳かな演奏で、音楽会の幕が開かれた。
 

この公演で、ロシア人男性が歌うバリトンの美しい声が私の心をとらえた。中学校の頃からロシア語を習った私にも、それは耳慣れない歌だった。初めて聞くロシア語の『アリラン』だった。

必ず帰ってくると誓って
 あの人は、涙を流し 緑をかきわけ
 アリラン峠を越えていった
 悲しみの時が流れ 季節は巡りゆけども
 あの人は帰らない
 そして、悲しい歌だけが アリラン峠を越えていく
  アリラン、アリラン アラリヨ

1. Уходя, обещали вернуться...
И горючие слёзы жены
Орошали зелёные травы
На холме Ариран.
Ариран, Ариран,
Ариран, арариё.

2. Уходили мужья, уходили,
И унылые годы текли,
И роняли цветы лепестки
На холме Ариран.
Ариран, Ариран,
Ариран, арариё.

3. Миновали года, миновали.
Шли дожди и метели мели...
Миновали года, миновали
На холме Ариран.
Ариран, Ариран,
Ариран, арариё.

4. Снова плачут корейские жёны,
И, как в древности, слышит Чосон
Эту скорбную, скорбную песню
На холме Ариран.
Ариран, Ариран,
Ариран, арариё.

 

 

 翌日、その歌を作ったハバロフスク在住の作曲家キム・サンホと市内のオペレッタ劇場で会った。彼は、劇場のレッスン室に私を案内した。彼は、アップライトのピアノの前に座ると、五線紙に手書きで書かれた楽譜を取り出し、ピアノを弾きながら小さな声で歌い出した。『異国の郷愁』『私の人生は』など、ハングルで書かれた詩に曲を付けた自作の歌だった。休むことなく次々と歌を披露した。

歌が終わると、静かに語りはじめた。
 ある日、カレイスキーたちに読まれている『高麗新聞』に、ロシア語で書かれた詩が紹介されていた。
『アリラン』だった。詩を書いたのは、モスクワに住むカレイスキーのメンドクウク。キム・サンホは、すぐに連絡を取り、その詩に曲を付け歌にした。
「韓国朝鮮人は、どこへ行っても自分の国を絶対に忘れません。私たちは、『アリラン』と聞くと、みんな愛国心がわいてくるのです。」

 

キム・サンホの両親は、朝鮮半島南部出身。先祖代々暮らしていた土地には日本人が暮らすようになり、職を求めて「樺太」(現在のサハリン)に移住した。
そして、一九四三年にキム・サンホが生まれた。
「一九四五年に戦争が終わり、日本人はみんな帰っていったけど、私たちの国は南北に分断され、どちらにも帰ることはできなかった、そのままサハリンで暮らすしかなかったんです。」
 7歳までは「かねまつとみしげ」と名乗っていたが、学校へ通うようになってから「キム・サンホ」と名乗るようになった。ロシア語の名前はもっていない。学校を卒業後、ハバロフスクに移住した。

 戦前、日本人としてサハリンに連れてこられ、戦後ソ連領になってからも放置され、故国には帰れず各地に散らばった人々……。
 慎重な物腰で、私の目を見つめながら小声で話す彼の言葉の端々に、カレイスキーたちの思いが込められているように感じた。

「私は朝鮮人だから朝鮮の名前です。両親はどこへ行っても朝鮮半島出身であることを忘れるなと言っていたし、私も子供達にそう話しています。
 見た目ではどうあろうと、心の中には韓国朝鮮の文化があります。私がサハリンで生まれても、祖先から代々受け継いできた「族譜」があります……。われわれの祖先は、生きる道を求めてアリラン峠を越えていったのです。そして白髪になっても祖国へもどることは出来ませんでした。」

 キム・サンホは、ロシア語のアリランを、著名なロシア人歌手に歌わせることで、この地にカレイスキーがたくさん住んでいるということが、広まるのではないかと考えた。
「でも外国人に『アリラン』の心は表現できません。ここには歌える人はいない。歌えても私には気に入りません。」
 その日私たちは、時間が経つのを忘れて、変わるがわるピアノを弾き、歌を歌った。

 短い旅の日程を終え、ハバロフスクを去る日、空港で手続きをして出発の時間を待っているところへ、キム・サンホが現れた。
「キム先生、わざわざ来ていただいてありがとうございます。」
 お礼と別れの挨拶を告げる私に、キム・サンホは、静かに告げるのだった。
「こうして出会えたのだ。いつか私の作品集を歌ってください。そしてアルバムにしましょう。」
 私は、手渡された手書きのアリランの楽譜を丁寧にバックにしまい、帰路へと向かった。
 ゲートに入る手前でもう一度振り返ると、立ちつくすキム・サンホの姿が見えた。
 私は、背伸びをしながら、大きく手を振った。
「いつかきっと」とつぶやきながら……

   
   
   

 


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Chon Wolson officilal Website www.wolson.com